AttilaTaroの日記

その日聴いた音楽などの記録

2021/10/10 - 横尾忠則展に行く

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今日は現代美術館に横尾忠則展を見に行った。いつか見に行かなければと思ううちに気づけば会期終了も近づき、この週末しか行く機会がなくなった。

チケットを確保するのが遅く、閉館1時間半前からの時間帯しか取れなかったのだがそれでも美術館は非常に混み合っていた。作品は1階〜3階まであるとのことで、時間内に全て見られるか分からず焦った。結果として、かなりハイペースで見ることになってしまった。

彼の作品はあまり見たことなく、かなり新鮮な気持ちで見ることができたのだが、とにかくその偏執性とナンセンスさに圧倒されるばかりであった。まず思ったことは、「絵がデカい」。巨大なキャンパスに描かれる大胆な筆致を見ているだけでも楽しめるが、その上非常にサービス精神と探究心に溢れており、布や骨、電飾といったさまざまなモチーフを縦横無尽に使用しているので1つ1つの作品がエンターテイメントとして成立しているのである。

上で偏執性と描いたのは、1つのモチーフから手を替え品を替え数多の作品を生み出すその執拗さを指摘してのことである。例えば、泳いでいる女性の絵。この絵を基本形として、反転させたり、色を変えたり、背景を変えたり、顔のパーツを福笑いのように変えたりととにかく増産する。こうした作品群が壁一面に並べられている様を見た時は、その天丼(?)ぶりに思わず笑ってしまった。漫画太郎先生のコピペ芸はここが源流なのではないかと邪推したくなる。

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彼の代表的な作品群である『y字路』もいわば同様の手法で、あるy字路をベースに昼夜や背景を変え描く、というものだが、その作品数はあまりにも多く、天丼とかいうレベルを遥かに超えているのでその根源的な異常性を感じざるを得ない。

彼のナンセンスは卓越している。彼の絵の名前は内容とかけ離れているものも多く、その乖離ぶりに笑うこともしばしばある。そしてコラージュ。人が銀河を描く時、そこに並ぶ星々、惑星群は白い絵具で描き表されるであろう。彼はその代わりに人の顔写真を貼り付けるのである。この顔写真芸の破壊力は凄まじく、周りの人が真面目に、普通に絵を鑑賞していることがおかしく思えてくる。人間、何やってもいいのだと不思議と元気が出た。

それにしても、やっぱり蛭子能収さんの絵は彼に影響受けてるんですね。

 

現代美術館のある清澄白河は路地を入ると完全に下町で、飲み屋には所狭しと人が集っていた。

 

 

美術館に行く前に買った本を夜に読む。

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江口さんが本当に絵が上手い人は引き算が上手く、「何を描くか」より「何を描かないか」がというセンスが重要だが、それは前提としてテクニックがあってのものだと発言していて身につまされた。鍛錬します。