AttilaTaroの日記

その日聴いた音楽などの記録

思いつき - 2021/10/13

最近、白黒のイラストで、背景を緻密に描きこんで、その中にアニメっぽい女の子がいるというものが多い気がする。panpanyaさんの系譜に連なるものなのかはわからないけれど、一定の潮流と言えるように思う。

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思えばつげ義春水木しげるらも、超技巧の背景とデフォルメされた人物のアンバランスさが一つの魅力であり、上記のような傾向はオタク文化を通過した上でのリバイバルという位置付けになるのかもしれない。

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つげ達は、背景の緻密さがともすれば漫画っぽさを失わせてしまうことを危惧して、あえて力の抜けた人物達を描いたようにも思える。適度の隙間を画角に持たせ、一定のゆとりを持たせる余裕が感じられる。そこから時代は下り、背景と人物を同一の解像度で描く大友克洋が登場した。彼は圧倒的な画力をもって人物と背景を徹底的にリアルに、乾いた描線で描いた。その方法論は従来緻密さで群を抜いていた劇画のアプローチとは異なり、それらに特有の汗臭さを排除したクールな絵を確立した。彼が与えた影響のもと、漫画における背景の描線は変わった。大袈裟にいえば、つげ達が持っていた「臭い」を内包した木々、廃屋、といった旧時代的な背景は、大友の無機質なビル群に取って代わられたということになる。これは単に背景として描かれる対象が都会になったという意味だけでない。例えば大友は山や川といった自然物を描いても都会的になる(このへん上手く説明できないので上下の絵を比較して感じ取って欲しい)。

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このパラダイムシフトによって、漫画の背景はより無機質な方向に向かっていき、漫画のストーリーが情動のドラマを展開する中で、その背景は徹底的にリアルを追求していく。デジタル作画の普及がこの傾向を後押ししたとも言える(こうした流れの中で、江口寿史浅野いにお花沢健吾を槍玉に、写真化していく背景を批判したというひと騒動がありましたが。。。)大友の漫画にあった、背景と人物の合一という文脈が抜け落ち、背景を一つの舞台装置と捉え徹底的にリアルに描くことが一定の地位を得たことになる。

togetter.com

話が長くなったが、panpanyaさんに代表されるような潮流は、時代の流れの中で忘れられた「生きた背景」の復興なのかもしれないですね。